太陰太陽暦は古代ギリシャにおいても行われたが、新城は独自発達説を主張した。また、暦註を中心とした迷信記事の来歴を調べ、それらが科学的根拠の無いことを記した『迷信』(1925年)も著した。

●上海自然科学研究所所長としての活躍
 1923年、対支文化事業(のちに東方文化事業)特別会計法が成立し、日中共同の文化事業が計画されることとなった。これは、中国に義和団事件賠償金を擬似的に返還し、中国側の歓心を得ようとする国際政治のゲームのコマの一つであった。新城は、1925年、事業の一つである上海自然科学研究所(1931-45年)を運営する上海委員会に加わり、研究所設立前の日中共同の準備研究として、上述の松山や文元模(北京師範大)らによる朝鮮、満州の重力、地磁気、経緯度測定を企画した。新城は1935年、第2代所長に就任。日中共同事業構想はすでに名目上となり、研究所は中国の国民党政府には容認されていなかったが、中国学界との交流を積極的に進めた。

エピソード
 東方文化事業は、まさに日本の一事業であり真意は「文化侵略」であるという見方が中国側には強くあった。1926年12月の上海委員会第1回総会後、日本側と中国側は分裂同然となった。そのときにも新城はあくまで連帯を求め、中国側委員の厳智鐘に「政治や経理などの俗務以外に超然たる純学者より成る中日連合の研究学会を組織すること」を提案する書簡(1927年3月8日)を送っている。さらに4月には単身北京にわたり、北京大、北京師範大、政府教育部を訪れ、太平洋学術会議のような「東亜学術研究会」を提案し、賛成されたが、実現には向かわなかった。所長就任後も、1935年3月に南京の国民政府教育部を訪れた。王教育部長は日本の一役所に等しい上海自然科学研究所を援助することはできないが、私人としては「同情と興味」を持っていると答えた。また、1938年には、日本の国策に応ずるような研究に統制すべきだという日本内地からの要求に対して、「支那の国土民衆に関する基礎的科学研究に徹する」と応じている。もとより、政治と学問は人的、物的資源の関係で分かちがたく結びついている。しかし、政治の世界においても、学者の集団の自律性を理念として掲げ続けようとした人物が新城新蔵であった。

交友、師弟
師:田中舘愛橘長岡半太郎、カール・シュヴァルツシルト
友人、後輩、同僚:大谷亮吉、文元模、厳智鐘、狩野直喜、内藤湖南、飯島忠夫、高山樗牛、小西重直
師弟、後継者:松山基範、熊谷直一、東中秀雄、速水頌一郎、荒木俊馬、上田穣、沈せん、薮内清、能田忠亮
(★せんという漢字は王偏に睿と書きます。JISコード表になく表示することができません)