
主要な業績の説明
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東海精機時代に手掛けた自動車部品ピストンリングの開発・製造で、技術的な開眼を果たした本田は、戦後本田技研を設立して、原動機付き自転車(いわゆる「バタバタ」)の開発に成功する。旧陸軍の無線機用のエンジンを改良したものを自転車に装着するというアイディアはアントレプレヌール(技術を基礎とした起業家)として卓抜、そのアイディアを実現するための技術的工夫もまた当時真似手のなかったものだった。本田の特徴は、そうして積み重ねた技術的なノウハウを、次々に新しい製品開発に応用し、しかも、つねに世界を見据えていたことだった。さらに1952年にアメリカに技術視察に赴き、アメリカの品質管理の手法を学んで戻ったことが、技術者としての本田を成長させた。とくに公害問題への対応としていち早く開発したCVCCエンジン(1972年)は、世界の水準を抜くホンダの決定打となった。その意味で、本田は要素技術として歴史を変えるような決定的なものは残さなかったが、アントレプレヌールとしては、エディソンやフォードに匹敵すると言われる。なお本田の意を体してつくられた本田財団の提供する「ホンダ賞」は、技術の世界におけるノーベル賞のように、世界に受け入れられている。
(写真:CVCCエンジン、本田技研工業提供)
エピソード
明るく人懐っこい人柄と厳しい技術屋気質を併せ持った人として、本田語録は極めて豊富だが、最も重要なスローガンは「つくって喜び、売って喜び、買って喜んでもらう」ことであり、これが本田の社是でもある。引き際の鮮やかさも話題で、多くの経営者と違って、引退後は自身はもちろん親族も経営には一切かかわらせなかった。「最高顧問」という身分を贈られて、「これからは“最低顧問”という立場だから、だれに遠慮もなく好き勝手がやれる」と言ったという。最高顧問を英語で“Supreme
Advisor”というと聞いた本田は「シュークリーム・バドワイザーたぁ何事だ」と言ったという。駄洒落大好きな本田の面目躍如である。
交友、師弟
独立・独歩の本田にとって生涯の伴侶といえば、夫人を除いて、共同経営者だった藤沢武夫だろう。ホンダという会社を語るとき、藤沢の名に触れないわけにはいかない。アントレプレヌールとして抜群の才能をもつ本田だが、会社経営に関しては、決して堪能ではなかった。戦時中、中島飛行機の下請けの工場経営者だった藤沢は1949年に本田と出会い、ホンダの営業関係を司ることになる。
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