主要な業績の説明
東京通信研究所の看板を掲げた井深が、最初に手がけた仕事はラジオの改造、修理であった。普通のラジオ放送は中波だが、海外向けや海外からの情報をより多く聞ける短波に目をつけたのである。既存のラジオで短波も聞けるコンバーターを開発し、人気を博した。会社が徐々に大きくなるにつれて官公庁や放送局などからの仕事も増えていったが、井深は大衆生活に直結した製品を生み出したいと考えていた。そのころ、一般家庭における電気製品といっても、電球とラジオぐらいであり、新しい製品を一から考えださねばならなかった。ラジオは当時数え切れないほど多くの会社が取り組んでいた、井深は盛田昭夫らと相談した結果、録音機に行き当たった。
レコーダーの開発にあたり、当時一般的になっていたワイヤーレコーダーに見切りをつけ、テープ式のレコーダーの将来性を見据えていた。出来たばかりのアメリカ製品を参考にもしたが、テープの素材、磁性粉の研究など、ほとんど試行錯誤のくり返しを経て、1949年9月に試作1号機が完成。1950年1月、わが国初のテープレコーダーG型(重さ45kg、価格16万円)を完成させ、通称デンスケ(M型)、放送業務用など新しいテープレコーダーを製品化している。しかし、録音機が一般家庭向け電気製品となるのはもっと後のことである。
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井深はアメリカでテープレコーダーが実際にどのような使われ方をしているかを視察に出かけた際、トランジスタと出合うことになる。特許使用料と引き替えにトランジスタ特許の公開を受けたソニーは大きく飛躍できるきっかけを与えられたといえよう。1954年から始めたトランジスタラジオの開発は数カ月の差でアメリカに先を越されたが、様々な試作品、失敗品を通過して、早くも1955年8月にTR-55が、わが国初のトランジスタラジオとして発売された。1956年の暮れには世界最小のトランジスタラジオTR-63(ポケッタブルラジオ)が完成、翌年暮れには飛行機をチャーターしなければならないほどの花形輸出製品に育ち上がった。
(写真:上はわが国初のテープレコーダーG型。右はわが国初のトランジスタラジオTR-55。ソニー提供)
エピソード
ソニーがトランジスタラジオの開発に乗り出したころ、最も重要な部品であるトランジスタの生産歩留まりは5%しかなかった。生産したトランジスタ100個の内、5個しか使い物にならないという状態であった。これが生産コストを引き上げていたのである。しかし井深は、「歩留まりは向上する、仮に50%まで上がればコストは20分の1になる」と無謀さにあきれる周囲の人を説得し、事実そのようにことは進行した。TR-55発売時、ラジオは真空管式全盛時代で、世帯普及率は70%を超えていた。井深は世帯単位でなく、個人単位にまでラジオを普及させることを先の目標に設定すれば、市場はまだまだ拡大可能とふんでいた。