こうして、恒温槽を必要としない水晶振動子による発振装置が登場することになった。

●水晶振動子の応用
 水晶振動子は、無線装置が発信する電波の周波数を安定にする役割から、さらに周波数標準器 へと利用された。古賀が1933年ごろに欧米を旅行した際、時計に水晶振動子を利用するアイデアに気づいた。日本に戻り、 さっそく水晶時計の開発に挑んだ。1937年には、東京天文台で第1号機の試運転にたどり着いた。本格的な開発は戦後になった。

●戦時中の活動
 太平洋戦争の期間には、他の研究者同様、古賀も軍事研究に協力している。彼がどのような軍事研究にかかわったかは、敗戦時に戦争犯罪に問われるのではないかという危惧などから、多くの関係資料が焼却され、分からないことが多い。残された資料から、古賀が、水晶を利用しない安定周波数発生のための工夫[注1]、陸軍の高度測定用レーダーの開発[注2]などに携わったことが分かる。とくに高度測定用のレーダーの開発については、1943年ごろに撮影されたと思われる記録フィルムが、先ごろになって東京工業大学百年記念館で発見されている。映像は約1時間に及び、レーダーの取り付け作業、航空機を利用した実験の様子が写されている。

[注1]:電波管理委員会編『日本無線史 第3巻「無線研究史」』(1951年)
[注2]:古賀逸策先生記念事業会編『古賀逸策博士記念文集』(1984年)


エピソード
 古賀は、少年期から口数の少ないおっとり型であったという。また酒もタバコもたしなまないまじめ型であったともいう。旅行に行く時には地図を手放さず、旅行の感想を聞いたら「地図と同じだった」と答えたという、堅物さを 象徴する逸話も残っている。しかし、ユーモアのセンスがまるで無かったわけではないようだ。たとえば、「逸策」の欧文表記を「Issac」としているが、これはアイザック・ニュートン(Issac Newton)から彼が借用したネーミングである。また、家には書斎は作らず、茶の間で読書や書き物をした。しかも家族が談笑したり、テレビをつけたまま、時には友人を夕食に招いている最中に、黙々と思索や作業に打ち込んだという。弟子たちは彼が人一倍の集中力をもっているあかしだとも述べている。しかし、実のところは彼が、常に人に囲まれていないと落ち着かないほど寂しがりやであった、と家族の一人は語っている。古賀を有名にした水晶振動子も、その基本は水晶の加工法にある。古賀はこれを、甲府の水晶加工師、土屋華章のもとで学ばせてもらい、そのうえで新しい水晶加工法の工夫に挑戦した。さらに、ブラジルのリオデジャネイロなどの水晶採掘現場を、当時としは困難な旅行を 乗り越えて視察に行っている。古賀は理論だけの関心に止まらず、実験やその実用化の問題にまで興味をもっていた。活動型の人物でもあったといえよう。